要点
- 熱帯・亜熱帯性のムール貝の一種ミドリイガイにおいて、高い完成度で全ゲノム情報を再構築することに成功した。
- 得られた情報は、今後マイクロプラスチック粒子や汚染物質に対する貝の応答をはじめ、生理学、生態学、水産食品学等様々な研究への活用が期待される。
- 得られた配列情報から、ムール貝類が水中基盤に付着するために合成するタンパク質の糸「足糸(そくし)」の耐久性のしくみが明らかになった。
概要
東京大学大気海洋研究所の井上広滋教授らは、ミドリイガイ[用語1](図1)の全ゲノム配列の解読を行い、高精度なゲノム情報の再構築に成功した。この中で東京工業大学 生命理工学院の田中裕之研究員と伊藤武彦教授は、ゲノム配列のアセンブル・遺伝子アノテーションなど情報解析を担当した。ミドリイガイはムール貝[用語2]の仲間で、熱帯・亜熱帯沿岸生態系の主要種であり、また、東南アジアで広く養殖される水産重要種である。さらに、本種には海水中のマイクロプラスチック粒子や汚染物質を蓄積する性質があり、海洋汚染の指標生物[用語3]としても注目されている。今回解明した全ゲノム配列[用語4]は極めて精度が高く、生理学、生態学、水産食品学など様々な研究分野に今後大きく貢献することが期待される。
さらに、井上教授らは、解明したゲノム配列から、ミドリイガイが海中基盤に付着するために合成する「足糸」[用語5]の耐久性のしくみを解明した。ムール貝類の足糸は、微生物や酵素による分解に耐性があることが知られていたが、そのしくみはこれまでわかっていなかった。今回解明したゲノム上の遺伝子の中から、足糸を合成する「足」[用語6]で主に発現し、かつ発現量が高い81遺伝子について詳しく調べると、タンパク質分解酵素阻害物質や生体防御関連の遺伝子がその約30%を占めていた(図2)。すなわち、足糸の耐久性は、頑丈な構造を作るだけでなく、分解から防御するための遺伝子を多数動員して実現していることが初めて明らかになった(図3)。この成果は、海中施設や船舶への貝類の付着防除対策に新たな手掛かりをもたらすものである。
内容
ミドリイガイ(図1)は、緑色の殻が鮮やかなムール貝の仲間であり、アジアを中心とする熱帯・亜熱帯域の沿岸域に広く分布する沿岸生態系の重要種である。本種は東南アジアを中心に食用として広く養殖され、市場に流通している。また、本種は汚染物質を体内に貯めやすい性質を持つため、海洋汚染の指標生物として用いられる。さらに、海水中の粒子を濾し取って食べる性質から、マイクロプラスチック粒子を蓄積しやすく、その影響を調べるためのモデルとしても近年重要視されている。
本研究では、神奈川県江の島で採集したミドリイガイの全ゲノム配列を次世代シーケンサー(Illumina)により解読した。全ゲノム配列の解読は一般に、DNA配列を断片化してバラバラに解読した後、解読した断片配列をコンピューター上でつなぎ合わせ、再構築する作業(アセンブリ)を行い、さらにつなぎ合わせた配列中にある遺伝子をコンピューターで予測する(遺伝子予測)という手順で行われる。本研究でのアセンブリの結果は、評価指標となるN50値[用語7]が約410万塩基長に達し、極めて優れたアセンブリ結果となった。また、遺伝子予測の完成度を、BUSCO[用語8]という指標により評価すると、99.4%という極めて高い評価となった。今回得られた高精度ゲノム情報は、マイクロプラスチック粒子や汚染物質に対する貝の応答の研究や、生理学、生態学、進化学、水産食品学等の様々な研究に今後大きく貢献することが期待される。
本研究ではさらに、得られたゲノム配列情報を利用して、ミドリイガイが海中の基盤に付着するために用いるタンパク質の糸「足糸」の耐久性のしくみを解明した。足糸は、自身を住みやすい場所に固定する、ムール貝類の言わば生命線である。足糸はタンパク質分解酵素や微生物による分解に対して耐性があることは古くから知られていた。そして、そのしくみは、足糸を構成するタンパク質の特殊な構造や分子間重合によるものと考えられてきた。
今回、足糸を合成する器官である足、鰓、閉殻筋(貝柱)などの組織ごとに発現しているmRNAの解読も行い、その情報を利用して、足で主に発現する遺伝子を、ゲノム上の遺伝子から選抜した。それら遺伝子のうち、発現量が多い81遺伝子を「足特異的高発現遺伝子(Highly Expressed genes in the Foot; HEF)」と命名した。HEFのうち32遺伝子(約40%)は、足糸の構成成分として知られているタンパク質や、その合成に関わる遺伝子であった。これまでに知られている足糸構成タンパク質はほぼすべてこれら32遺伝子に含まれていた。一方、HEFのうち24遺伝子(約30%)は、タンパク質分解酵素阻害物質(プロテアーゼインヒビター)、生体防御に関わるタンパク質など、酵素や微生物による分解を防ぐためのタンパク質の遺伝子であった。以上の結果より、ムール貝類の足糸の耐久性は、強い構造を作ったうえで、防御のための遺伝子も多数動員して、足糸を分解から守ることによって実現していることが初めて明らかになった。今後、耐久性を高めているタンパク質の機能や分布等を調べて行くことで、ムール貝類の付着防除対策策定に向けての新たな手掛かりが得られることが期待される。
発表者
- 井上広滋(東京大学大気海洋研究所 教授)
- 善岡祐輝(東京大学大学院新領域創成科学研究科/大気海洋研究所 博士課程1年生)
- 田中裕之(東京工業大学 生命理工学院 研究員)
- 金城梓(東京大学大気海洋研究所 特任研究員)
- 佐々三依子(東京大学大学院新領域創成科学研究科/大気海洋研究所 博士課程3年生)
- 植田育男(北里大学/神奈川大学 非常勤講師)
- 新里宙也(東京大学大気海洋研究所 准教授)
- 豊田敦(国立遺伝学研究所 比較ゲノム解析研究室 特任教授)
- 伊藤武彦(東京工業大学 生命理工学院 教授)
付記
本研究は、科学研究費助成事業新学術領域研究「学術研究支援基盤形成」先進ゲノム解析研究推進プラットフォーム(16H06279 (PAGS))、基盤研究(B)(18H02261)、東京大学—日本財団「FSI海洋ごみ対策プロジェクト」の支援を受けて実施したものである。
用語説明
[用語1] ミドリイガイ : Perna viridis。東南アジア周辺の熱帯・亜熱帯の潮間帯(満潮時は水没し、干潮時は露出する場所)やそれよりやや深い場所に生息する。プランクトンや微小粒子を濾し取って食べる濾過食者である一方、魚や甲殻類など肉食生物の餌となり、その生物量(バイオマス)も大きいため、食物網において重要な位置を占める。足糸を張って海中の基盤に付着するが、互いに足糸を張り合って塊(マッセルベッド)を作ることも多く、その塊の隙間や陰が微小な生物に棲み場所を提供するため、生態系への物理的な貢献度も大きい。さらに、近年では人間の活動に伴って北米や南米など世界各地に分布を広げ、侵略的外来種としても注意が払われている。日本沿岸にも侵入しており、江の島では1988年からコロニーの形成が見られる。本研究では、江の島で採集したミドリイガイを用いた。
[用語2] ムール貝 : 狭義にはムラサキイガイ(Mytilus galloprovincialis)やヨーロッパイガイ(Mytilus edulis)のことを指すが、広義にはイガイ科の貝類全体を指す。フランス語のMoule(ムール)に由来しているが、英語ではMussel(マッセル、マッスル)と呼ばれる。イガイ科の貝類は、亜寒帯・温帯域に主に分布する前述のムラサキイガイやヨーロッパイガイ、本研究の対象である熱帯・亜熱帯性のミドリイガイやその近縁種であるモエギイガイ(パーナ貝)(Perna canaliculus)が食用として著名だが、他にも多くの種が存在し、淡水(カワヒバリガイLimnoperna fortuneiなど)から深海(シンカイヒバリガイBathymodiolus japonicusなど)まで様々な環境に進出しており、進化学的にも生態学的にも興味深い生物群である。本研究で得た配列情報により、イガイ科の貝類の系統関係も解明でき、ミドリイガイは、シンカイヒバリガイやカワヒバリガイよりもムラサキイガイに近縁であることがわかった。
[用語3] 海洋汚染の指標生物 : 海洋汚染の調査は一般に、海水や底質を採集して、その中に含まれる汚染物質を分析する方法がとられるが、汚染物質に曝露される生物の状態や体内への汚染物質の蓄積を調べるアプローチも有効な方法である。亜寒帯・温帯域ではムラサキイガイやヨーロッパイガイが、熱帯・亜熱帯域を調べるためにはミドリイガイが指標生物としてよく使われる。いずれも生物量が多く、海岸で簡単に採集できる利点があり、付着性で移動力が低いために、汚染している場所の特定が容易である。加えて、イガイ類は汚染物質を蓄積しやすい性質があると考えられており、イガイ類1個体の分析により、数十~数百リットルの海水の分析に匹敵する情報が得られるとの見積もりがある。イガイ類を指標に世界の海洋汚染を解明する「マッセルウォッチ」が1970年代に提唱され、展開されている。濾過食により周囲の海水からマイクロプラスチックを吸い込んで体内に貯める性質があるため、マイクロプラスチック汚染の研究においても重要な研究対象となっている。
[用語4] 全ゲノム配列 : それぞれの生物がもつ核酸のすべての遺伝情報をゲノムと呼ぶ。ゲノムは多くの生物においてDNAの配列として存在するため、その生物のすべてのDNA配列が全ゲノム配列に相当する。全ゲノム配列を解読することで、その生物がもつすべての遺伝子や、遺伝子を制御する情報などを明らかにすることができる。
[用語5] 足糸 : イガイ類が付着するために合成する、主にタンパク質でできた糸(図1)。イガイ類は足で足糸を合成し、足糸牽引筋という筋肉で引っ張ることにより基盤に付着している。糸の本体は主に数種のコラーゲンでできている。先端には吸盤のような形の面盤があり、この部分で基盤に付着する。糸の表面と面盤はFoot proteinと総称される様々なタンパク質で構成されている。様々な材質に水中で付着できる足糸の成分を研究することで、水中で接着できる新しい接着剤が開発できる可能性があるため、多くの研究者が研究に取り組んできたが、そのメカニズムはまだ十分には解明されていない。足での高発現を基準として足糸に関わる遺伝子を抽出することに成功した本研究の成果を活用することで、足糸形成のしくみの解明がさらに進む可能性がある。
[用語6] 足 : 二枚貝が移動する際に使う体の組織。アサリなどの足はとがった舌のような形だが、イガイ類の足は細長く、伸縮させながら移動するほか、足糸の合成を担当する。足の裏側には足糸の鋳型になる溝があり、そこに様々なタンパク質を分泌することによって足糸が形成される。
[用語7] N50値 : バラバラに解読した短いDNA断片配列を、コンピューターでアセンブリする作業を進めると、多くの断片が連結された長い配列ができていく。これら連結でできた長い配列をScaffoldと呼ぶ。アセンブリがうまくできているほどScaffoldの長さは長くなる。N50値はアセンブリの出来栄えを評価する指標のひとつで、Scaffoldを長い方から順に足していき、全体の半分の長さに達した時のScaffoldの長さのことを指す。本研究のN50値(約410万塩基長)は、既存のイガイ類のゲノム配列中で最も高い値を示したイガイ(Mytilus coruscus)のN50値(90万塩基長)より圧倒的に長く、アセンブリの結果が極めて良好であることを示している。
[用語8] BUSCO : Benchmarking Universal Single-Copy Orthologsの略称。全ゲノム配列が解析された多数の生物が共通して持っており、かつ遺伝子数がゲノム上にひとつしかない遺伝子(Core Gene)のリストを用いて配列アセンブリや遺伝子予測の完成度を評価する方法。このリストに含まれる遺伝子は、基本的にそれぞれの生物が必ずひとつ持っていると考えられるので、解読した配列にこのリスト中の遺伝子がどれだけ含まれているかを調べることで、その完成度を評価できる。今回の結果99.4%は、あるべき遺伝子がほぼすべて含まれている極めて高い結果である。既存のイガイ類のゲノム配列で最もBUSCO値が高いのはムラサキイガイの85.5%であった。
論文情報
掲載誌 : |
Scientific Reports |
論文タイトル : |
Genomics and transcriptomics of the green mussel explain the durability of its byssus |
著者 : |
Koji Inoue*, Yuki Yoshioka, Hiroyuki Tanaka, Azusa Kinjo, Mieko Sassa, Ikuo Ueda, Chuya Shinzato, Atsushi Toyoda, Takehiko Itoh |
DOI : |
- プレスリリース ミドリイガイのゲノム解析からわかった足糸の耐久性の秘密
- 鳥類の性分化に働く遺伝子の共通パターンを発見|東工大ニュース
- サンゴの天敵・オニヒトデの体表を覆う未知の共在菌をインド・太平洋の広域から発見|東工大ニュース
- 鼻の中でタイプの異なる匂いセンサーができる仕組みを解明|東工大ニュース
- 両親由来のゲノム配列を個別に決定する新手法|東工大ニュース
- ほぼ全ての脊椎動物に共通するフェロモン受容体を発見|東工大ニュース
- 四肢形成時に細胞の生死の運命を決めるメカニズムを解明|東工大ニュース
- 研究者詳細情報(STAR Search) - 伊藤武彦 Takehiko Itoh
- 研究者詳細情報(STAR Search) - 田中裕之 Hiroyuki Tanaka
- 生命理工学院 生命理工学系
- 東京大学大気海洋研究所
- 東京大学大学院新領域創成科学研究科
- 国立遺伝学研究所
- 研究成果一覧
お問い合わせ先
東京大学大気海洋研究所 海洋生命科学部門
教授 井上広滋
E-mail : inouek@aori.u-tokyo.ac.jp
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東京工業大学 総務部 広報課
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