要点
- ホウ素化学を利用してフッ素化有機ラジカルの新規発生法を確立し、含フッ素複素環化合物の合成に応用
- 合成中間体である常磁性化学種の構造と反応動力学を、ミュオンスピン分光法を利用して解析
- 有機合成とミュオン科学を組み合わせた前衛的な物質創成に本格展開
概要
東京工業大学 物質理工学院 応用化学系の伊藤繁和准教授と小長谷翔大学院生(当時)らの研究チームは、最適化されたアニオン性ホウ素化合物の酸化反応を利用したフッ素化有機ラジカルの発生法を新たに確立し、医薬品等に利用可能な窒素含有複素環化合物の合成に利用できることを見出すとともに、その合成中間体である常磁性ラジカル分子の振る舞いをミュオンスピン分光法によって明らかにした。
フッ素を含む有機化合物は医農薬や材料開発などのさまざまな分野に応用されている。今回新たに確立した合成法では、ホウ素化合物の化学を基盤として独自に開発したラジカル前駆体を活用しており、さまざまな機能性を付与した新規物質の創成に活用できる。合成法の応用として、含フッ素複素環化合物である6-(ジフルオロメチル)フェナントリジン[用語1]の合成に展開し、新規物質を含む12種類の誘導体を得た。さらに、プロトン[用語2]の軽同位体に相当するミュオン[用語3]を用いる分光測定によって得られた、合成反応の短寿命中間体およびその変換に関する実験的な知見は、有機合成を基盤とするものづくりに飛躍的な発展をもたらすことが期待される。
本研究成果は、東京工業大学 物質理工学院 応用化学系の伊藤繁和准教授、カナダTRIUMFのResearch ScientistであるIain McKenzie(イアン マッケンジー)氏らによって行われ、6月23日付の「The Journal of Organic Chemistry」に掲載された。
背景
フッ素を導入した複素環化合物は、医薬品や農薬および液晶などの機能性材料の開発において大変有用であることから、その合成法を新たに開発することは物質科学において常に重要なテーマとなっている。当研究室では、ジフルオロメチル(CF2H)基を導入した陰電荷をもつホウ素化合物(以下CF2Hボレートと表す)を独自に開発し、これを有機フッ素化合物の合成に活用するために種々の検討を行ってきた。その過程で、CF2Hボレートが一電子酸化されて中性状態になると、ジフルオロメチルラジカル(・CF2H)を与える可能性が高いことが理論計算から示唆された(図1)。ラジカルの持つ高い反応性をうまく制御すれば、有機フッ素化合物の新たな合成法として利用できると考え、今回、図2に示すような、イソニトリル[用語4]から誘導されるイミドイルラジカルという常磁性中間体を経由する窒素複素環化合物(フェナントリジン)の合成をデモンストレーションした。
ところで、図2に示すイミドイルラジカルは不安定でその観測は容易ではないが、その構造と化学的挙動を明らかにすることは、活性酸素の制御や磁性体の開発などに有用な、有機合成化学の高度化に資すると期待される。当研究室では、ラジカル中間体の生成とその反応を明らかにできる手法としてミュオンスピン回転・共鳴(μSR)分光法を用いた独特の研究に取り組んでいる(過去のプレスリリース参照、素粒子ミュオンを用いた高エネルギー複素環ラジカルの創成|東工大ニュース)。ミュオン(μ+)は質量が9分の1のプロトンに相当する素粒子で、陽子加速器を用いるとほぼ完全にスピン偏極した状態のミュオンビームが得られる。このミュオンを有機化合物に打ち込むと、ミュオンは運動エネルギーを失っていきながらミュオンと電子との束縛状態である水素原子状のミュオニウム(Mu = [μ+e-])の状態で存在するようになり、最終的に物質中で安定な位置に落ち着く。本研究では、2-イソシアノ-1,1’-ビフェニルへのミュオニウム付加による常磁性ラジカルの発生とフェナントリジンに至る反応動力学について、μSRを活用した観測と解析を試みた。今回のイソニトリルに関連する例として、窒素複素環カルベン(NHC)のミュオニウム付加反応を図3に示す。
研究成果
(1)含フッ素複素環化合物 6-(ジフルオロメチル)フェナントリジンの合成
具体的に検討した反応スキームを図4に示す。すなわち、酸化銀(Ag2O)とペルオキソ二硫酸カリウム(K2S2O8)を酸化剤として用いる酸化反応を行った。続いて、さまざまなアリール置換基を導入した19種類のCF2Hボレートを用い、2- イソシアノビフェニルからフッ素化合物である6-(ジフルオロメチル)フェナントリジンの合成を検討した。その結果、4-(ジエチルアミノ)フェニル基を導入したCF2Hボレートを用いると最も高い効率で6-(ジフルオロメチル)フェナントリジンを合成できることを見出した。生成物の収率に改善の余地があるが、本反応はアニオン性試薬の比較的温和な酸化反応による6-(ジフルオロメチル)フェナントリジン合成法として活用でき、含フッ素複素環化合物をつくる有効な手法として期待される。
合成法開発と並行して、CF2Hボレートの電気化学測定を行ったところ、効率のよいジフルオロメチルラジカルの発生には最適の酸化電位が必要であることが示唆された。また、イソニトリルへのラジカル付加と速やかな分子内環化によるフェナントリジン骨格への変化の経路は、DFT(密度汎関数法)[用語5]計算によって合理的に説明できることを確認した。図5には本反応によって合成できることを確認した6-(ジフルオロメチル)フェナントリジンをまとめた。
(2)ミュオンスピン回転測定によるイミドイルラジカル挙動の調査
次に、イソニトリルへのラジカル付加によるイミドイルラジカルの生成とその挙動について、図6aに示すイソニトリル(2-イソシアノ-1,1’-ビフェニル)を用いて横磁場ミュオンスピン回転(TF-μSR)[用語6]測定を行い、図6bに示すスペクトルを得た。測定はカナダのTRIUMFサイクロトロン施設[用語7]で実施した。2種類の外部磁場(1.45 T, 2.02 T)を用い、最も強い常磁性シグナルνR1が図6aに示すイミドイルラジカルであることを、DFT計算の結果も併せることで確認した。
- 図6
- a)イソニトリルへのミュオニウム付加。 b)TF-μSRスペクトル。νR1がイミドイルラジカルの低磁場側の常磁性シグナル。νμはミュオンの反磁性シグナルで、小さな2種類の常磁性シグナルνR2とνR3はベンゼン環へのミュオニウム付加による。いずれのシグナルも外部磁場(1.448 T, 2.021 T)に依存した周波数を示している。
さらに、イミドイルラジカルのTF-μSR常磁性シグナルの温度変化について検討した。その結果、図7aのように温度上昇に伴うスペクトル幅の増大が観測されたことから、図7bに示す分子内環化が進行していることがわかり、その緩和定数の温度変化から5 kcal/mol程度の活性化エネルギーを見積もることができた。見積もった活性化エネルギーは大きな標準偏差を伴っていたものの、過去に報告されている類似例と比較的近い値であった。
- 図7
- a)イミドイルラジカルが示す常磁性シグナルの温度変化。b)イミドイルラジカルの分子内環化反応とその過程における活性化パラメーター。
社会的インパクト
今回見出した、ボレートの酸化反応によるジフルオロメチルラジカルの発生を経由した合成法は、改良の余地があるものの、ホウ素化合物の電子移動反応を活用することによって、医農薬や材料開発等に有用な、フッ素置換基を持つ複素環分子を構築できる新規な方法を開拓できることを示したものである。さらに、ミュオンスピン分光法を活用してその反応中間体である常磁性ラジカルの構造と動的挙動について新たな知見を得ることに成功している。今回の研究成果は、高度に精密化された物質創製手法の開拓に資するものと期待される。
今後の展開
現在、フッ素置換基を導入したホウ素化合物からフッ素化ラジカルを発生させる新たな手法をいくつか見出しており、それらを応用した高選択的有機合成反応の開発研究を進めている。また、イソニトリルをはじめとした、ラジカルに対して高い反応性を示す分子構造の反応動力学について、ミュオンスピン分光法を用いてより高度な解析を行う予定である。将来的には、ミュオンを用いることではじめて制御可能となる常磁性有機分子を創出し、通常の化学的手法では実現困難な物質創製に挑戦したいと考えている。
付記
本研究の一部は、JSPS科学研究費助成事業 基盤研究(B)「素粒子ミュオンによる高エネルギー開殻分子構造の創出と新規スピン機能ユニットの開拓」(19H02685)、同 挑戦的研究(萌芽)「高周期カルボニルへの選択的ミュオニウム付加による未踏拡張パイ共役系開殻分子の創出」(22K19023)およびThe Natural Sciences and Engineering Research Council of Canada(NSERC)(Grant No. RGPIN-2019-04249)等の助成を受けて行われた。
用語説明
[用語1] フェナントリジン : 二つのベンゼン環とピリジン環が縮環した三環性の平面分子構造を持つ化合物。DNAに結合するなどの性質が知られている。
[用語2] プロトン : 陽子とも呼ばれ、水素の原子核または水素陽イオンの形で存在し、pまたはH+で表す。中性子とともに原子核を構成する要素で、核子と総称される。
[用語3] ミュオン : ミュー(μ)粒子とも呼ばれ、1936年に宇宙線の中に観測されている。電子などと同じレプトン族の素粒子の1つで、正・負の粒子(μ+, μ-)がある。
[用語4] イソニトリル : イソシアニドともいい、ニトリル(R-C≡N)の炭素と窒素の位置が逆転している。一酸化炭素と同じ電子構造を持ち、図8のような共鳴式で表される。
[用語5] DFT(密度汎関数法) : 原子、分子、凝集系などの多体電子系に電子状態を調べるために用いられる量子力学の手法で、エネルギーなどの物性を電子密度から計算可能であるとする。
[用語6] 横磁場ミュオンスピン回転(TF-μSR) : ミュオンのスピン方向に垂直に外部磁場(B)をかけ、生成するミュオニウム付加体のミュオンスピン歳差運動を観測する方法。図9に概略を示す。観測の過程は、まず、(1)加速器から生じたミュオンビームがミュオン検出器を通過して試料に照射され、試料にミュオンが止まるとともに電子時計がスタートされて陽電子検出器での観測が始まる。次に、(2)試料のなかでミュオニウム付加体が生成すると、ミュオンの崩壊によって生成する陽電子が検出器によって観測される。そして、(3)観測される陽電子が十分少なくなると観測が終わり、次の陽電子検出のために時計がリセットされる。この(1)~(3)の過程を繰り返すことで、時間スペクトルが陽電子数のヒストグラムとして得られる。
[用語7] TRIUMF サイクロトロン施設 : カナダ・バンクーバーのサイクロトロン施設。TRIUMFはTRI-University Meson Facilityの略。1968年設立。
論文情報
掲載誌 : |
The Journal of Organic Chemistry |
論文タイトル : |
Difluoromethylborates and Muonium for the Study of Isonitrile Insertion Affording Phenanthridines via Imidoyl Radicals |
著者 : |
Kakeru Konagaya, Yu-En Huang, Kazuki Iwami, Tetsuya Fujino, Rikutaro Abe, Reuben Parchment-Morrison, Kenji M. Kojima, Iain McKenzie, Shigekazu Ito |
DOI : |
- プレスリリース 有機合成と素粒子科学のコラボレーションで物質創成を開拓 —含フッ素複素環化合物の合成法開発と常磁性中間体の挙動解析—
- 素粒子ミュオンを用いた高エネルギー複素環ラジカルの創成|東工大ニュース
- 省電力半導体の実現に有用な複素環化合物を開発—フッ化水素の検知物質としても利用可能—|東工大ニュース
- 伊藤繁和准教授が2019年度日本中間子科学会奨励賞を受賞|東工大ニュース
- 伊藤研究室
- 伊藤繁和 Shigekazu Ito|研究者検索システム 東京工業大学STARサーチ
- 物質理工学院 応用化学系
- 研究成果一覧
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准教授 伊藤繁和
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