要点
- ペンタセンダイマーの分子内一重項分裂が、溶媒の種類や圧力によって影響を受けることを実証
- 世界で初めて高圧下での過渡吸収測定を実現し、励起状態過程を解明
- 外部刺激に応答する分子内一重項分裂の医療分野などの応用展開に向けての第一歩
概要
東京工業大学 理学院 化学系の木下智和大学院生(博士後期課程1年)、福原学准教授、慶應義塾大学 理工学部 化学科の羽曾部卓教授、同学部の中村俊太訪問研究員(研究当時)らの研究チームは、分子に吸収された光子数の2倍の励起子を生み出す“一重項[用語1a]分裂”の速度や効率が、分子周囲の溶媒や圧力によって変化することを実証した。溶液系における分子内一重項分裂に関しては、ここ数年特に注目を集めており、分子の配向性や構造自身を変化させる戦略が一般的であった。今回の研究では、外部刺激に着目し、溶液中のペンタセンダイマーの一重項分裂に対する溶媒および静水圧[用語2]の影響を検討した。その結果、極性を持つ溶媒を用いたペンタセンダイマー溶液においては、加圧によって一重項分裂が促進されることが見出された。また、過渡吸収測定[用語3]によって励起状態について詳細な検討を行った。今回、圧力という外的刺激による制御を達成したことで、新たな発色団の分子設計や効率化に向けた指針に成り得るだけではなく、がん治療にも有用な一重項酸素の高効率な生成等、幅広い応用展開に向けての新たな切り口となることが期待される。
本成果は2023年2月23日発行(現地時間)の英国Royal Society of Chemistry(王立化学会)のChemical Science(ケミカル サイエンス)に掲載された。
背景
通常の有機分子は基底状態(S0)で光照射によって“光子”を吸収すると、高エネルギーな状態、いわゆる“励起状態”へと遷移する。高エネルギーな励起状態から基底状態に戻る経路(失活)はさまざまな過程があり、例えば励起状態のなかでも励起一重項(S1)と呼ばれる状態から光を出しながら戻る経路は“蛍光”と呼ばれている。このとき1分子に着目すると、基本的には吸収した1つの光子に対して1つの励起状態しか作ることができない。
一方で、一重項分裂と呼ばれる光物理過程では1つの光子から2つの励起状態を作ることができる。具体的には、励起一重項(S1)が近接の基底状態分子と相互作用し、ペア(1(TT))を形成し、2つの分子がそれぞれ独立した三重項[用語1b](T1)と呼ばれる別の励起状態へと変化することで、見かけ上、一重項が2つの励起状態の分子(励起子)に“分裂”する。このように、1つの光子の吸収に対して2つの励起子を形成することが可能であるため、一重項分裂は励起状態の“増幅過程”であると捉えられている。
こうした観点から、一重項分裂は光エネルギーを効率的に化学エネルギーもしくは電気エネルギーへと変換する光物理過程(例えば太陽電池)として、近年特に注目を集めている。また、基底状態では三重項の酸素分子を一重項酸素と呼ばれる極めて活性の高い酸素へと変換することができるため、がん治療のひとつである光線力学療法[用語4]への応用展開が期待されている。
このように一重項分裂は非常に魅力的な光物理過程ではあるものの、一重項分裂が可能な分子は、エネルギー条件を満たしたペンタセンやテトラセンなどのごく一部の有機分子に限られる。これまでの研究の多くは、これらの有機分子を組み合わせた効率的な一重項分裂を示す有機分子の探索が行われていた。具体的には、2つの有機分子をさまざまな架橋部位でつなげた“ダイマー”を用いて、励起子の生成効率や反応速度の比較が行われてきた。一方で、一重項分裂の応用展開に向けては、分子構造そのものによる制御だけではなく、外部刺激を用いた柔軟かつ動的な制御が必要不可欠である。したがって、近年の研究においては有機分子間の配向性に加えて、温度・溶媒、超分子[用語5]の相互作用などの外部刺激が検討されている。
こうした背景の中、本研究では圧力を外部刺激とした場合、熱力学的に比較的容易かつ精密な制御が可能であると考え、静水圧による分子内一重項分裂の制御を試みた。具体的には、2つのペンタセンをつなげたペンタセンダイマー(Pc-BP-Pc)の顕著な静水圧効果が立証された。
研究成果
本研究では、一重項分裂の最も重要なプロセスとして、ペンタセンダイマーがTTを形成する過程に着目した。実験ではペンタセンダイマーを溶媒(今回はトルエン・メチルシクロヘキサン)に溶かし溶液を調製した後、高圧用セルに入れて、加える圧力を変えながら(0.1 ~ 180 MPa)光励起過程の変化を検討した。各圧力下で励起状態(ここでは励起一重項)のさまざまな失活ルートのうち、隣接するペンタセンとペア(TT)となる成分の反応速度(kSF)のみを抽出する解析を行ったところ、非常に興味深い結果が得られた。
一重項分裂における溶媒および加圧の影響
まず、ペンタセンダイマーのトルエン溶液においては加圧に対してkSF(図2参照)は増加傾向にあることを見出した。一方で、トルエンと比較して分極[用語6]していないメチルシクロヘキサンを溶媒として用いた場合ではトルエンの結果とは対照的にkSFは圧力に対してほとんど変化を示さなかった。つまり、溶液中の分子内一重項分裂に関しては溶媒、すなわちペンタセンダイマーを取り囲む物質が影響を及ぼすことが明らかになった。
さらに、圧力変化のkSFのデータを基にTTへと移り変わる過程における体積変化(ペンタセンダイマーと周辺溶媒が占める微視的な容積)を算出した。この結果、kSFにおいて増加傾向が観測されたトルエン溶液ではこのkSFのプロセスは体積減少を伴って進行することが明らかになった。つまり、ペンタセンダイマーの微視的な容積は遷移状態[用語7]においてより“コンパクトな”状態を経て遷移しているということを示しており、具体的には分子の周りに存在する溶媒分子を一部放出(脱溶媒和[用語8])しながら進行していることが明らかになった。したがって、これらの結果から溶液中の一重項分裂においては周囲の溶媒の動きも非常に重要であるということが初めて示された。
加圧下での過渡吸収測定
次に、一重項分裂で作り出される三重項励起子に対する静水圧効果の検討を行った。本研究では、静水圧を印加した状態で直接的に三重項の光物性を分析する手法として過渡吸収測定を行った。過渡吸収測定とは光を照射した後の励起状態にある分子が発するシグナルを細かい時間スケールで測定するものであり、極めて短いタイムスケール(例えばkSFだと10億分の1秒単位)で進行する一重項分裂の分析が可能となる。今回の研究では既存の光学系に静水圧の印加が可能なセルを台座で固定し、調整を行うことでこの測定を可能にした。トルエン溶液中でペンタセンダイマーの量子収率(吸収した光子数に対して生成した三重項励起子数の割合)を算出した結果、大気圧中の値から減少していく傾向が観測された。この結果も、ペンタセンダイマーの微視的容積変化に基づくものであることが示唆された。
以上のように、本研究では静水圧下での分光分析によってこれまで明らかにされてこなかったペンタセンダイマーの一重項分裂に関して、電子状態や溶媒和構造の微視的状態を初めて捉えることができたと言える。
社会的インパクト
溶液中での一重項分裂の制御を達成したことで、これまで非常に魅力的な光物理過程でありながらも、実用化に向けては停滞気味であった生体環境下でのがん治療の一つである光線力学療法をはじめとした医療分野への新たな切り口となる可能性が高い。また、身の回りにありふれた光エネルギーの効果的かつ容易な変換プロセスとして、溶液中での有機化学反応や新たな光反応などエネルギー・通信分野への展開が期待される。
今後の展開
今回示した静水圧による制御を基に外部刺激を利用した高効率な一重項分裂の系の開発を加速化させる可能性を秘めている。また、今回静水圧下での過渡吸収測定の有用性を示したことで、静水圧下での高速分光が進み、より詳細な励起状態ダイナミクスの解明につながっていくことが期待される。
付記
本研究は、科学研究費 基盤研究(B)(研究者:福原学(19H02746))、基盤研究(B)(研究者:羽曾部卓(JP21H01908))および国際共同研究加速基金(国際共同研究強化)(研究者:羽曾部卓(JP20KK0120))を受けて行われた。
用語説明
[用語1a] 一重項 : スピン多重度に対応した名称。
[用語1b] 三重項 : [用語1a]を参照。
[用語2] 静水圧 : 液体・流体中に加わる圧力。
[用語3] 過渡吸収測定 : レーザーを当てて励起した分子に対して時間を変えながら測定する分光法。
[用語4] 光線力学療法 : がん細胞の中で光を当てて、光を吸収した色素が反応性の高い一重項酸素を作りだすことで、がん細胞を死滅させる治療法。
[用語5] 超分子 : 分子間の弱い相互作用によって集合体を形成し、単量体とは異なる性質を示す分子集合体。
[用語6] 分極 : 分子内での電荷の偏りの大きさを表し、大きいほど分子間での相互作用が大きくなる。
[用語7] 遷移状態 : 分子がある状態から別の状態へと変化する過程で、最もエネルギーが高い状態。
[用語8] 脱溶媒和 : 分子が多数の溶媒分子との相互作用によって溶媒中に溶解している状態(溶媒和)から、一部の溶媒分子との相互作用が解消される状態。
論文情報
掲載誌 : |
Chemical Science |
論文タイトル : |
Control of intramolecular singlet fission in a pentacene dimer by hydrostatic pressure |
著者 : |
Tomokazu Kinoshita, Shunta Nakamura, Makoto Harada, Taku Hasobe, Gaku Fukuhara |
DOI : |
- プレスリリース 圧力でダイナミックに変化する励起子増幅過程を解明 —分子内一重項分裂過程の静水圧制御を達成—
- 陰イオン認識化学センサーの静水圧制御に成功|東工大ニュース
- 福原研究室
- 福原学 Gaku Fukuhara|研究者検索システム 東京工業大学STARサーチ
- 理学院 化学系
- 慶應義塾大学理工学部化学科
- 研究成果一覧
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東京工業大学 理学院 化学系
准教授 福原学
Email gaku@chem.titech.ac.jp
慶應義塾大学 理工学部 化学科
教授 羽曾部卓
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