10月17日、リベラルアーツ研究教育院主催シンポジウム「AIとヒューマニティー」が開催され、AI(artificial intelligence、人工知能)についての講演と討論が行われました。パネリストは、本学リベラルアーツ研究教育院の調麻佐志教授(科学技術社会論)、國分功一郎教授(哲学)、AIの作る俳句と腕比べをした経験もある若手有力俳人の大塚凱氏の3名で、本学の池上彰特命教授が司会を務めました。会場は、東工大大岡山キャンパスのディジタル多目的ホールが予定されていましたが、聴講希望者が多く、隣接するメディアホールにも映像中継が行われ2会場での開催となりました。
まず、調教授は、フェルメールやウォーホルなどの美術作品を例にあげながら、「創造性」の面でAIには人間を越えられない壁があることを指摘しました。また、文章表現における、文脈(状況)や意味を「理解」することもAIには難しいと説明しました。
特定の領域では、AIは容易に人間を凌ぐものの、倫理的・社会的な制約などで、AIには置き換えられない領域があり、AIと人間の違いを認識した上で、「私たちの問題」としてAIへの対応を考えることが重要であるとしました。
次に、國分教授は、『AIと知性の問題ー「知性一般」はありうるかー』と題して、哲学者ドゥルーズなどの言葉を引きながら語りました。
AIが、「人工知能」であるためには、単純に計算が速いだけではなく、「知性」が必要であるとしました。そして、知性の根幹である「想像力」、それによって作り出される「奥行き」の感覚、また、そこに必要とされる「他者感覚」を、AIは持つことができるだろうかという問いを投げかけました。この他者感覚は、個別具体的な他者を知ることの積み重ねから生じるもので、「他者一般」や「知性一般」というものが存在しない以上、果たして人工的な知性は生じるのだろうかとも述べました。
続けて、大塚氏は、『AIが俳句を作るとき―”作者”はどこにいるのか?』と題して語りました。
大塚氏は、北海道大学とともにAI俳句の研究を行っています。俳句を作るAI「AI一茶くん」とその作品の解説を通して、「最善の一手」が何かを判断しやすい囲碁や将棋と異なり、「いい俳句とは何か」を判断することはAIには難しく、その判断能力をいかに学ばせるかを模索中であると説明しました。そして、AI俳句のレベルを上げていくことは可能だが、果たしてそれは文芸たり得るのかと問いかけました。作品の背景となる「作者」本人の実体の伴わないAI俳句を、人はどこまで楽しめるだろうかという問いです。
その後のディスカッションでは、AIにディープラーニングで膨大な量のデータを読み込ませればAIに質的な変化が生じるだろうか、AIの学習は個別の領域の中での読み込みであり、その枠外のまったく新たなものは生まれてこないのではないか、シンギュラリティは実際には訪れないのではないかと議論を深めていきました。また、人間が人間自身をわかっていないという事実を、AIによって突きつけられている現状は非常に興味深いという意見も出ました。
そして、AIによって多くのものが作り出されているものの、それらに煽られることなく冷静に判断して、AIと向き合っていくためにはリベラルアーツの観点が必要であろうとも話し合われました。さらに「人間とは何かをAIはわからない。それが故に人間の意味があるのでしょう」という池上教授の言葉で、シンポジウムは締めくくられました。
今回の複合的なアプローチによるパネリストの発表や、そこから触発されて生まれた議論の展開は、聴講者にとって充分に満足できる内容でした。分野の境界を越えた次回のシンポジウムへの期待の声も寄せられています。
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